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船橋リズムセンター

「野に在って野に下らず、俗に在って俗に流されず」。こだわりなし、怒りなし、浅く、ぶれつつ、無着陸、、、

アメリカ南部小説世界を覗く

井上一郎「アメリカ南部小説論 フォークナーからオコーナーへ」(彩流社)

アメリカ南部小説論: フォークナーからオコーナーへ

を読んでいる。

図書館から借りてすでに返却期限を過ぎている。

フラナリー・オコナー(オコーナーよりオコナーの方がしっくりくる、どちらが発音に正確かどうかはともかく)はいくらか読んではいたが、フォークナーはまるで読んだことがなければ、ここに取り上げられているジョージ・W・ケイブル、ロバート・P・ウォレンは初めてその名を聞く。

文春文庫の「厭な物語」

厭な物語 (文春文庫)

にオコナーの「善人はそういない」(昔は「善人はなかなかいない」だったけど、こっちのタイトルの方が、これもしっくりくる)が入っていて、久し振りに読んだら、無性に面白い。

結末の不条理さ、厭さよりも、おばあちゃんがどことなく邪険に扱われていたり、家族ドライブの全然ウキウキ感のない冷えた描写にグッとくる。

オコナーは「賢い血」も読んでいるし、エッセイ集「秘儀と習俗」も持っている(未読)のに、なぜだか最近は遠ざかっていた。

なぜだかもなにもない、ただ遠ざかっていた。

オコナーからすぐにアメリカ南部文学は面白いぞ、という連想になったわけでもない。

まず、カーソン・マッカラーズが浮上してくる。どこから浮上してきたのか。一か月ほど前のことなのに思い出せない。

やはり図書館で「悲しき酒場の唄/騎手」

悲しき酒場の唄 (白水Uブックス)

を借りてくる。

面白い。

オコナーよりも読み易い。

「騎手」にカフカの姿などを見たり。

そこからWikipediaカーソン・マッカラーズを調べたりしてるうちに、段々に、これはアメリカ南部文学が面白いのでは、という思いがもたげてきた、のだと思う。

片手で検索。

「アメリカ南部 文学」とでも打ったのだろう、それで「アメリカ南部小説論」がヒットしてきたのかもしれない。ともかく図書館にあったので借りる。真新しい。

アメリカ南部文学、という括りが有効なのかどうか、よくはわからない。

「アメリカ南部小説論」を読んでいると、それでも基底にあるのは、因習的な、宗教的な空気に覆われた現実とでもいうのか。

ふとマジックリアリズム的な、などと口を滑らせたくなる。

でも、あながち間違ってもいないんだろう、とも思う。

フォークナーを読まないとまずい雰囲気だ。

「アメリカ南部小説論」で論じられているオコナー作品はどれも魅力的。これは読みたいと思ったのだが、本棚を探してみれば、探さなくても表の目立つところにちゃんと「オコナー短編集」(新潮文庫)があるじゃないか。

「善良な田舎者」も「黒んぼの人形」も「パーカーの背中」も入っている。

特に「パーカーの背中」を読んでみたい。いや、おそらく前に読んでいるはずなのだが。

「アメリカ南部小説論」にこうある。

パーカーは自らの体に彫った入れ墨に不満を感じている。

「「それを見ると、さまざまな色の一つの複雑なアラベスク模様を成しておらず、無計画な寄せ集めのように見えた」とパーカーは思ったのだ。それは単なる個々の入れ墨の色彩、形態についての「不満」ではなく、それらを統合するような「ひとつの模様」が欠落していることに対するものである」。「つまり、パーカーの入れ墨に対する「不満」の裏には、統一原理を失った自分の今までの生き方に対する「不満」が通奏低音のように響いていたのである」。(p143)

統一原理を失った自分の今までの生き方に対する「不満」…

一貫性のなさ、軸のなさ、筋のなさ…

共鳴するものを感じる。

しかし、自分はそこに「不満」を感じる風でもない。

不満を抱いたところで仕方ない…もとより人は一貫してない、統一原理など持ち得ない。

このあたり強引に自分のブログのテーマに回収しようとしているから気を付けよう。

このようにして感想も批評もすり抜けて、上滑りするように書いていく。

そんなことが可能か?