船橋リズムセンター

「野に在って野に下らず、俗に在って俗に流されず」。こだわりなし、怒りなし、浅く、ぶれつつ、無着陸、、、

iPhoneからの投稿〜フラナリー・オコナーの言葉

せっかくはてなブログのアプリを入れたのだし、iPhoneから打ってみよう。
ブログ、というと質、量、それなりに読み応えのあるものを書かないといけない気がするのだけども、そういうのを書くにはやっぱりPCに向かってキーボード打つ方がよい。
スマホでフリックしながらではどうも長い文章は書きづらい気がする。
この書きづらさは恐らく、スマホの画面では全体を見渡せないとこからくる。
スマホはTwitterの文字数が基準になってしまってる、というのもあるかもしれない。
でも、EVERNOTEにつけてる日記はそんなことはない。ダラダラと通勤電車内で打つことができる。
ブログだけなにもかしこまることはない。
むしろこうしてスマホのアプリから手軽に更新できる方が敷居が低くなってよい。

Twitter読書メーター鑑賞メーターはてなブログ、公開していないもので日記と節操なく、気ままに書き散らしているのだが、それほど意識的に使い分けてるでもない。
と言ってみるとそんなこともない。
一応使い分けてはいる。

書くのが好きならこっそりコツコツ書いてたらいい。
それを公開するというのはどういう心性か。
趣味を分かち合いたいでもなく、熱烈に伝えたいことがあるでもなく、訴えたい、提言したい、そんなこともない。
となると単にエゴだろうか。自己満足の世界か。
止むに止まれぬ表現欲求でもない。

これはまた別の話だろうけど、今日読んでいて胸に響いたので書き留めておく。
「オコナー短編集」(新潮文庫)の解説に紹介されていたフラナリー・オコナーの言葉。
人々は常に、現代作家には希望がない、現代作家の描く世界像は耐えがたい、と不平をこぼす。これに対する唯一の答えは、希望のない人間は小説を書かないということである。〜中略〜小説を書くのは現実からの逃避であるといった意味のことを口にする人々に私はいつもひどく腹が立つ。小説を書くことは現実のなかに突入することであって、全身に強烈な衝撃を受ける。

「希望のない人間は小説を書かない」。ブログもTwitterも小説ではないが、書くという行為に共通項を見いだせば、やはりその行為には何か希望があるのだろう。

現実にただ打ちひしがれない、なにか、希望を繋ぐ。

そして(小説を)書くことは「現実からの逃避」ではなく、むしろ「現実のなかに突入すること」だと。


フラナリー・オコナーは難病を患い39歳で世を去った。

その年にもう間もなく自分もなろうとしているが、彼女の書くこと、生きることへの真摯さの10%でも3%でもあればなあ、などと…