船橋リズムセンター

「野に在って野に下らず、俗に在って俗に流されず」。こだわりなし、怒りなし、浅く、ぶれつつ、無着陸、、、

オコナー~ニヒリズム~「ある戦慄」

「アメリカ南部小説論」井上一郎(彩流社)を読んで、フラナリー・オコナーへの関心が数年振りに再び高まってきたのと同時に、カーソン・マッカラーズやユードラ・ウェルティへも食指が動き始めている。

図書館に予約してマッカラーズ「結婚式のメンバー」(中央公論社)

結婚式のメンバー (1972年)

とウェルティ「黄金の林檎」(晶文社

黄金の林檎

を借りてくる。「黄金の林檎」の表紙にはウィリアム・モリスタペストリーが使われている。味わいある装丁、手に取るのが嬉しい。ブックデザイン平野甲賀、とある。意外。

平野甲賀というと、フリーハンドな切り紙みたいな独特な強弱のついたフォントばかりだと思っていたので。ちょっと調べたら、晶文社の装丁をほとんど手がけているのだとか。あの左向きのサイのロゴも。そうだったのか。

しかし、これで一か月はかかりそう。

本を読むスピードはたいして上がらないのに。

読書計画が日々狂っていく。

今年こそはと意気込んでいるジョイスの「フィネガンズ・ウェイク」は、もう2年ほど前から読もう読もうと思っているのだが。

 

オコナーは「アメリカ南部小説論」の前に、「厭な物語」(文春文庫)に入っていた「善人はそういない」を読んだところからポッと火が点いた感じ。

それはもう書いた気がする。

部屋の本棚を見れば「オコナー短編集」(新潮文庫)が並んでいた。

「パーカーの背中」、「善良な田舎者」を読む。おそらく再読。

「鈍重だが、まじめで、まったく平凡だった」少年パーカーは見世物小屋で全身入れ墨の男に魅了される。

パーカーはこの時だけが最も輝いている。未来が開けているような、能動性を感じるように描かれている。あとは逃げてばかり。自らも入れ墨を身体中に入れるのだが、不満は募るばかり。

唯一残された部分は、自ら直接見ることのできない背中だけ。

直視できない部分に、不可視の存在である神を彫り付ける。

彼の妻は「偶像崇拝だわ!」と叫び、箒で叩いて彼を家から追い出す。

 

「善良な田舎者」で、義足の娘ハルガは若い聖書のセールスマンに騙され義足を盗まれる。

ハルガの母は、彼女をいつまでも子ども扱いし、節度を守らない使用人の妻に腹を立てながらも我慢し、退屈な聖書のセールスマンに応対もする。そんな母の好きな言葉は、「完全なものは何もない」、「これが人生というものだ!」、そして最も重要なものは「ほかの人にもそれなりの考え方がある」というもの。

ニヒリズムを感じる。しかし本人はそうとは思っていないよう。達観でも、寛容でもない。

「オコーナーの世界において、ニヒリズムを裁くのはニヒリズムである」とは、「アメリカ南部小説論」から。

むしろこの作品ではニヒリズムにふさわしいのは、一見ハルガの方にも思えるが、彼女は母親に向かって、「理由もなく、食事の途中で立ち上がり」こう叫ぶ、「女よ!おまえは内側を見たことがあるか?おまえは内側を見て、自分とは違う実体を見ることがあるか?神よ!」と。嘯いているようには見えない。

それに対して「微笑はだれを傷つけることもない」と言う母親の方がやはり空虚だ。

聖書のセールスマンの持つスーツケースはほとんど空に等しい、ハルガの足は欠けている、母親は微笑と忍耐でやり過ごす。

彼らに比べると、使用人のフリーマンの女房はべらべらまくしたてるし、自分の間違いを認めないし、「あたしはいつも自分でそう言ってましたよ」が口癖だけども、最も「善良」に近い。おそらく彼女なら、聖書のセールスマンに騙されたりはしないのだろう。

 

たまたま観たラリー・ピアース監督「ある戦慄」がリンクする。

一見普通の人たちが内に抱えた不満や痛みや悩みを、たまたま同じ電車に乗り合わせた無軌道なチンピラ二人組の挑発に誘導されて曝け出されていく。

欺瞞、偽善がニヒリズムによって暴かれていく。

 

オコナーの作品においては、入れ墨や義足などアイデンティティを保つアイテムが肉体に密着していてほとんど不可分なところが興味深い。

それらが虚飾だとすると、それらを剥がせば当然血が流れる。

このあたりにオコナーの恐ろしさみたいなものがあるような、などと…