船橋リズムセンター

「野に在って野に下らず、俗に在って俗に流されず」。こだわりなし、怒りなし、浅く、ぶれつつ、無着陸、、、

どこに着地するでもない~嵐を呼ぶ!夕陽のカスカベボーイズ~虚実を行き来して、でも現実だって…

テーマが明確な方が読みやすいだろうとは思う。
特にまったくの赤の他人のブログなど、何を書きたいのか、何を書いているのか、がはっきりしないと「退屈」とバッサリ斬られる。
「何を書きたいのか、何を書いているのか、簡単にわからせないのがこのブログの味だ」とか傲慢な態度が通るわけもないし、そういうことは言いたくない。
しかし、わざわざブログなどという面倒なことをしたがる人はどうして、たいてい文章がうまい。簡潔だし、自分の意見も持っているし、常識をわきまえているし、適度なユーモアもあって、きちんとオチがついている。
けども、そこに物足りなさを感じる。いや、物足りなさというのだろうか?
人それぞれの、様々な経験や意見が、なんでこうもわかりやすく、読みやすく、楽しく、パッケージされ、流通されているのだろう。
不思議だ。文才のある人たち。
 
まずい料理の在り方を考えたい。
人はもっと突拍子もなく、脈絡もなく、いろんなことを考えるし、考えたことすべてに答えを出せるわけでもない。
高く飛んでるでもない、速く飛んでるでもない、でもいつまでもフラフラどこに着地するでもない、無着陸飛行的思考。ここに活路を見出す旅路。
こんなことを繰り返し書いていくことになりそう。
それが船橋リズムセンター。
 
子どもがTSUTAYAで借りた「映画クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ!夕陽のカスカベボーイズ」を一緒に観る。
これがよもやの落涙寸前。その涙の理由を探る。
ネタバレおかまいなしに。
 
裏通りにひっそりと、閉館した映画館カスカベ座。割れたトイレの窓から中へ忍び込んだしんちゃんとふたば幼稚園のいつもの面々。誰もいないはずの映画館なのに、スクリーンには西部劇のワンシーンのような荒野の映像が延々と流れている。と、いつのまにか映画の中の世界へ引き込まれてしまう。
 
西部劇の世界の住人にすっかりなりきって現実世界を忘れていく風間君、まさお君、ねねちゃん、他同じように映画の世界へ引きずり込まれた春日部の住民たち。
決して西部劇の世界が住みよいわけではないのだが、「これが自分の人生だ」と思い込み、現実の春日部での生活は記憶の彼方へ追いやられる。
本当の自分はどこにいる?
いや、まずは目の前の世界を生きていかなくちゃならない。生活。
今の私は西部劇の私。
が、しんちゃんは春日部での生活を忘れないように心掛け、現実へ帰るチャンスを狙っている。
それでも日増しに現実世界が遠くなる。ぶりぶりざえもんの似顔絵が描けなくなって悲しむしんちゃん。
まだ忘却することへの悲しさがある。
けれど、たいてい悲しまずして色んなことを忘れてしまうものなのだ。
ぶりぶりざえもんがまさか切ない時のイコンとして登場するとは。
 
時間。そう。
西部劇の世界は時間が止まっている。ということはストーリーが停滞している。
ここに脱出する鍵があるんじゃないか。
ストーリーを完結させよう。
高らかに「おわり」を告げよう。
しかしただ「おわり」と言っても終わらない。
西部劇といったら、町を牛耳る悪党とそいつをやっつけるヒーローがいないといけない。
こういうメタ的な構造を持った作品は、映画であれ、小説であれ、基本的には弱い。
真っ赤なヒーローパンツを履いて、超人的な力を獲得し、カスカベ防衛隊改めカスカベボーイズとして友情を再確認して覚醒したしんちゃん、風間君、まさおくん、ねねちゃん、ぼうちゃん。
テレビシリーズで見知っているあの幼稚園児たちが、西部劇世界を牛耳るジャスティス(正義もしくは掟)に立ち向かうその様に泣けてしまう。
かわいらしいキャラクターが縦横無尽のアクションを演じる、それだけでなぜだか涙がにじむのだ。
ウォレスとグルミット」シリーズに泣けるのと同様。ここには感動がある。
暴走する列車が脱線しそうだ。列車を支えるカスカベボーイズ。力が足りない。
いつもの、結束の言葉があったはずだが思い出せない。
このあたりの焦らし方もベタだけど好き。
「カスカベ防衛隊ファイアー!!!!!!!」
友情に泣くんじゃない。ただ、かわいいキャラクターが、テレビシリーズでおなじみのあのちょっと小憎らしい園児たちが、映画の世界でヒーロー然として健気にそのスケールを背負っている、全うしている、というのになんだか感動してしまう。
ジャスティスが必死に阻んだ禁断の封印を解くと、上空に燦然と「おわり」の文字が。
映画は終わり、春日部の住民は無事現実へ帰ってくる。
ところが、しんちゃんが好意を寄せていた女の子は、実は映画の中の登場人物で現実世界へは来れないのであった。
あれほどまでに現実世界へ帰ろうと声を大にしていたしんちゃんが、彼女のために映画の世界へ戻るんだ、という切ない逆転。
映画への恋?古き良き映画へのノスタルジーも込められているのだろう。会いたい彼女(彼)はスクリーンの向こう側。
カイロの紫のバラ」はスクリーンの彼女が現実世界の彼に恋して飛び出してきた。あれはどんな結末だったっけ?
いや、それよりも「サボテンブラザース」を思い出すのだった。
「サボテンブラザース」はこの「夕陽のカスカベボーイズ」とは逆パターン、つまり、映画スターが映画の役そのままで現実世界の山賊に襲われる村を助ける話。
虚実が入り乱れる設定に心奪われる。
「サボテンブラザース」は我が心のコメディ映画である。
むしろ「サボテンブラザース」があったからこそ、「夕陽のカスカベボーイズ」は胸に響いたのかもしれない。

クレヨンしんちゃんの映画には、虚実を行き来して最後には、どんなに地味で、控えめで、さえなくっても現実がいいじゃないか、という感じで終わる作品が多いように思う。
ヒーローになれる世界でうつつを抜かす「3分ポッキリ」も、ノスタルジーに溺れる「オトナ帝国」も同じだ。
どちらも好きな作品だけども、変にシニカルすぎるきらいもある。
(と言ってはみたものの、どちらもきちんと最初から最後まで観てないな…)
「夕陽のカスカベボーイズ」の切なさが心地よい。
 
 
映画の世界がいい、だなんて実際には思ったことはない。現実世界だってフィクションみたいなものだからね。
 

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