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船橋リズムセンター

「野に在って野に下らず、俗に在って俗に流されず」。こだわりなし、怒りなし、浅く、ぶれつつ、無着陸、、、

自虐の甘美さ〜「飛び出す悪魔のいけにえ3D」を観た〜新たなるソーヤー一家サーガの始まり?

もう少しタイムリーに書くべきだとは思うが、例えば映画を観終わった直後は、それが面白ければどこか興奮気味なとこがあるし、そうでもなければ「この作品がつまらないのか、それともこの作品を理解できない自分が未熟なのか…」と考え込んでしまうし、落ち着いて自分なりの見解をまとめる猶予が欲しい、などと思ってるうちに、そのことばかりを考えて暮らしてるわけでもないので、ただでさえ忘れっぽい性分で、その観た映画についての見解なり感想なり印象なりというのがぼやけてってしまう。で、そのまま結局書きそびれるか、もしくはそのぼやけた印象を手繰り寄せて、なにやら中途半端な感想を書き記す。便秘的雑文。健全なアウトプットではない。
と、わかっていながらも、コンスタントに更新することができない。怠惰によるものなのか、愛が足りないせいなのか。
こういう自虐的な文章には甘美さがあって、いくらでもダラダラと書き連ねることができてしまう。
自虐、へりくだる、私小説…こういう自分を低く見せる精神というのは日本固有のものなんだろうか?


「飛び出す悪魔のいけにえ3D レザーフェイス一家の逆襲」を観たのだけども、どうも手放しで喝采をあげるほどでもなかった。といって全くつまらなくもなく、ここで感想が便秘を起こす。
マイケル・ベイが2000年代に入ってリメイクした「テキサス・チェーンソー」シリーズとはまた別のリメイク、というか正式な続編ということになっているらしく、しかしこの辺の事情はよくわからない。
ただ、「悪魔のいけにえ」はよっぽど多くの人に好かれているのだな、それも表現者サイドの人たちに、と思う。

しかしオリジナル「悪魔のいけにえ」の恐ろしさは異様な美術、小道具、俳優の狂気を感じさせる演技、うだるような暑さや南部のうらぶれた景色を捉えたざらついた質感の画、そういったものの奇跡的な相乗効果によって醸し出されていたもので、血飛沫飛び散るスラッシャーものはそもそも「悪魔のいけにえ」とは相入れないような気がする。

とはいえ、「飛び出す悪魔のいけにえ」は単に現代風スラッシャーにしましたよ的なリメイクではない、と言わんばかりにオリジナルの出演者、マリリン・バーンズやガンナー・ハンセンがカメオ出演、さらにあの重たい金属製の扉も、ひっくり返って死んでるアルマジロも出てくる。オリジナルのオープニングに印象的に使われてる、「キーン」という耳障りな音効とともに焚かれたフラッシュに一瞬浮かび上がる映像、という演出もしっかり、ある。
が、どれもがオリジナルへのリスペクトによるものというより、オリジナル信奉者に対する配慮のように思えてならない…

あと3Dについて言えば、別に「飛び出す」必要なかったんじゃないのかな、と。なんかチェーンソーがブンブンこちらへ向かってきたりしたけども、3Dのためだけにあえて入れたカットで、それだって特に新味もない。

トビー・フーパーのオリジナル「悪魔のいけにえ」は、ソーヤー家の一階から二階にかけての階段を使ったハッとするカットがいくつかあったように記憶してるが、そう、ローアングルからのあおりのカットが恐ろしくも美しい効果を出していた、けどもそれに対して、今作「飛び出す悪魔のいけにえ」は、レザーフェイスの部屋が地下になり、それならむしろ狭い通路を地下へ地下へと行くシーンにもっとこだわりを感じたかった。
いや、警官がスマホのカメラを使って中継しながら地下へ降りてくというシーンがちょっとアイデアを感じさせたけども、なにかいまひとつだったのだ。

ここからネタバレになるのだろうか。
すでにしてるかもしれない。あまり気にしない。
ヒロインが出自を知り、呪われし血を引き継ぐことに決めて終わるのだけども、これじゃあ明らかに新たなるソーヤー家サーガの始まり、である。
なんとなく映画全体に食い足りなさを感じたのは、これが序章という位置づけで作られているせいじゃないだろうか?

なんだかすかされた気がするのだが、もしかしたらこの続編でとんでもない飛躍をするかも、という淡い期待も持っていたりする。


終わり