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船橋リズムセンター

「野に在って野に下らず、俗に在って俗に流されず」。こだわりなし、怒りなし、浅く、ぶれつつ、無着陸、、、

2014年の映画館初めは「MUD-マッド-」!〜切なく、甘酸っぱく、心引っ掻かれる

ようやく2014年の映画館初めに、ヒューマントラスト渋谷は「未体験ゾーンの映画たち」企画で上映中の「MUD-マッド-」を観てきた。
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マイケル・シャノンが来るべき天災に怯えて静かに狂っていく「テイク・シェルター」を監督したジェフ・ニコルズの新作。


率直な感想、面白かった。
ジェフ・ニコルズの前作と比べても、それにどんな意味があるか?と言われても困るが、多くの人の心に訴えかけるだろうピュアネスがストレートに描かれててすごくわかりやすいし、観る人によって程度の差こそあれ、胸を引っ掻かれるような感動がある。


アーカンソー州、川縁のボートハウスに住む14歳の少年エリスは、両親の不仲を客観的に認識してながらも、男女の永遠の愛を信じる、もしくは信じたい、まだまだロマンチックな年頃。
親友のネックと、洪水で木の上に引っ掛かったボートを見に離れ小島へ出掛けると、そこで人を殺したという謎めいた男マッドと出会う。
実は彼は幼馴染みであり、運命の女性でもあるジェニパーへの一途な愛のために人を殺し、彼女と逃げようとしていた。
エリスはマッドとジェニパーとの関係に大いなる憧れを抱き、彼らと近づきになるのだが…
という話。


あらすじをこう振り返ってみると、これはちょっと泣ける話だな、とあらためて思う。
なんにせよ、幼年期の世界(を動かしている大人たち)に対するロマンチックな想い、例えば父親は仕事に対して誇りを持っていて家族思いで尊敬すべき存在である、とか、母親は優しく深い愛情で家族を支えている、とか、愛し合う男女は永遠に仲睦まじく互いを大切にする、といったことが実はそう単純に割り切れるもんではなく、もっと複雑な様相をしているのだと知ることは、辛い体験である。
いや、辛い体験なんだろうな、と今では余所事のように感じてしまうほど年を経てしまったのだけども、それでもエリス少年のロマンチックな想いが打ち砕かれてしまう場に居合わせるのは、なかなか胸締めつけられる。


エリス少年を演じたタイ・シェリダンは、そんな潔癖で繊細な年頃の少年を、透徹した視線で説得力を持たせる。
父親の運転するピックアップトラックの荷台に乗せられて、流れゆく町の風景を見るともなしに見るあの視線、表情がたまんない。


一途な愛に身を滅ぼしていくような謎の男をマシュー・マコノヒーが、いかにも思春期の少年たちをたぶらかしそうな得体の知れない魅力で演じる。
マシュー・マコノヒーオーウェン・ウィルソンを長い間入れ違えて覚えてた、というツイートを目にしたけども、O.ウィルソンの得体の知れなさはもっとガードが緩くて、どこか畏怖させるものを感じさせるM.マコノヒーとは当たり前だけど違う。


エリス少年が、ロマンチックな愛を体現してると信じるマッドとジェニパーに近づくほどに、それまで見過ごしてたような身近な世界からダークサイドが滲み出してくる。
この感覚はデヴィッド・リンチの「ブルー・ベルベット」になんだか通じる。
カイル・マクラクランが美貌の歌手の色香に目が眩んだことから、退屈な地方の町のダークサイドに踏み込んでしまう


マッドの言い分を信じるなら、彼を狙う殺し屋たちは、チェーンレストランを展開する実業家一家が雇ってる。決して安易なマフィアやギャングといった悪の組織の者ではない。
エリス少年の家の向かいに住む偏屈な老人は、元海兵隊で、失われた愛の幻影を抱き続ける孤独な男であったりする。


世界は決して見たままではない。
エリス少年はマッドと関わることで、そんな真実を知ってしまう。
そして、永遠の愛というのも、額面通りのものなどないということも知る。


ところがマッドは、エリスが体験することになったこうした通過儀礼をどうやら経ずに、大人になってしまった。いわばピーターパンみたいな存在である。
永遠の愛をちらつかせて、食料や船のエンジンを盗ませたり、ボートの修理を手伝わせたり、とたぶらかす。


まあ、こういう寓意めいた脚本は非常に想像力を刺激する。
この点も面白いとこ。


町に越したエリス少年には新たな出会いの予感、ようやく青春が始まる。
切なくも、最後はどこか甘酸っぱい。